
「労働基準監督署の調査」と聞くと、多くの管理職は、ある日突然やってくる災害のようなものを想像するかもしれません。何も悪いことをしていないのに、いきなり目をつけられる。そんなイメージです。
でも、人事労務に携わってきた僕の実感は、少し違います。労基調査は、決して突然の災害ではありません。
日々の労務管理の積み重ねの結果として起きるものです。今日は、労働基準監督署による調査を切り口に、管理職が持つべきコンプライアンスの心得について書きたいと思います。数回に分けてお届けするシリーズの、第1回です。
調査は、突然始まるわけではない
労基調査には、大きく分けていくつかのきっかけがあります。定期的に行われる調査もありますが、見落とされがちなのが、
働く人からの相談や申告が端緒になるケースです。
一般に、退職した従業員が「あの職場は休憩が取れなかった」「残業代が正しく払われていなかった」といった相談を労基署に持ち込むことがあります。在職中は言い出せなかった不満が、辞めたあとに表に出てくる。それが調査のきっかけになることは、決して珍しくないと聞きます。
ここに、最初の教訓があります。
労務管理の問題は、そのときは表面化しなくても、いつか必ず誰かの記憶に残るということです。だからこそ、普段からの働き方、そして従業員との信頼関係が、めぐりめぐって効いてきます。日頃からコミュニケーションが取れていて、従業員の満足度が高い職場では、そもそも調査の火種が生まれにくいのです。
実際に指摘されやすい項目
では、調査で具体的にどんなことが指摘されるのか。代表的なものをいくつか挙げてみます。これらは、僕が人事労務に携わる中で「なるほど、ここが見られるのか」と実感した項目でもあります。
一つは、
労働条件の書面明示です。労働契約を結ぶときに、就業場所や従事する業務の内容などを、書面できちんと示しているか。実は、この労働条件通知書の記載事項は法改正で変わることがあり、フォーマットが古いままの事業所も少なくありません。制度が変わったこと自体が現場に周知されておらず、知らないうちに要件を満たせていない、というケースです。
二つ目は、
年次有給休暇の取得です。年10日以上の有給休暇が付与される従業員には、年5日は必ず取得させなければなりません。これは事業主・管理職の義務です。ここは「知らなかった」では済まされない、管理側がしっかり管理すべき部分です。
三つ目は、
賃金台帳の記載です。時間外労働の時間数など、法律で定められた事項が正しく記載されているか。使っている給与ソフトの仕様によっては、他の帳簿と合わせて管理することで足りる場合もありますが、いずれにせよ「どこにどう記録されているか」を説明できる状態にしておく必要があります。
四つ目は、
健康診断後の対応です。健診の結果、異常の所見が見つかった従業員について、必要な措置を取っているか。医師の意見を聴くといった事後のフォローが求められますが、ここは見落とされやすいところです。
これらを眺めると、性質が二つに分かれることに気づきます。
制度改正に現場が追いつけていないもの(労働条件通知書のフォーマットなど)と、
知っていれば防げた管理上のミス(年5日の有休、健診後の対応など)です。前者は情報のアップデートの問題、後者は日々の管理の問題。どちらも管理職が関心を持っていれば、防げる、あるいは早く気づけるものばかりです。
「着替える時間」は労働時間なのか
ここで、僕自身が強く印象に残っている論点を紹介します。それは「着替える時間は労働時間に含まれるのか」という問題です。
現場の感覚だと、「制服に着替えるのは業務の前の準備でしょう。それは労働時間ではないのでは?」と思う管理職が多いのではないでしょうか。正直に言えば、僕自身もそうした感覚を持っていました。
ところが、法律の解釈はそう単純ではありません。業務に必要な制服や装備への着替えが、事業所内で義務づけられている場合、その着替えの時間は労働時間とみなされることがあるのです。この解釈を、僕は社会保険労務士に改めて解説してもらって、ようやく腹落ちしました。
ここが、今日いちばん伝えたいことにつながります。
労基署の解釈と、現場の管理職の解釈は、しばしばズレるのです。しかも、そのズレに現場は気づいていないことが多い。「これくらい常識でしょう」という自分の感覚が、法律の前ではまったく通用しないことがあるのです。
管理職は、自分の常識だけで判断してはいけない
この「解釈のズレ」こそが、管理職が最も気をつけるべきところだと僕は思います。
悪意があって法律を破る管理職は、そう多くありません。多くの場合、問題は
「知らなかった」「そういうものだと思っていた」という思い込みから生まれます。自分の常識を疑わず、それが法的に正しいと信じ込んでしまう。ここに落とし穴があります。
だからこそ、管理職には二つの姿勢が必要です。一つは、
自分の判断を過信せず、迷ったら専門家に確認すること。社会保険労務士のような専門家の解釈を仰ぐことは、恥ずかしいことでも面倒なことでもありません。むしろ、それができる管理職こそ信頼に値します。
もう一つは、
法律は変わり続けるという前提に立つことです。労働関係の法律は、驚くほど頻繁に改正されています。数年前の知識が、今はもう古くなっているということが普通に起こります。
法律は、待ってくれない
身近な例を挙げましょう。2026年10月1日から、カスタマーハラスメント対策が事業主の義務になります。改正された労働施策総合推進法にもとづくもので、パワハラ・セクハラ対策と並ぶ法律上の義務です。
注意したいのは、この義務化には、パワハラ防止法のときのような中小企業向けの猶予期間が設けられていないことです。労働者を1人でも雇用するすべての事業主が、規模にかかわらず一斉に対象となります。「うちは小さいからまだ先だろう」は通用しません。
こうした変化は、これからも次々に起こります。労働関係に限らず、あらゆる分野で法律は動いています。管理職が「自分の仕事は現場を回すことだけ」と考えて、こうした変化に無関心でいると、知らないうちに法令違反の状態に陥ってしまう。それが、めぐりめぐって調査の火種になるのです。
これが、管理職の心得
ここまでを、管理職の心得としてまとめます。
労基調査を「入られないように」することが目的なのではありません。目的は、
従業員が安心して働ける、法令に沿った職場をつくることです。その結果として、調査の火種も自然に消えていきます。
そのために管理職ができることは、日々のコミュニケーションを大切にし、従業員の満足度を高く保つこと。コンプライアンス違反のない働き方を徹底すること。そして、自分の常識を過信せず、法律の変化に関心を持ち続け、必要なら専門家の力を借りること。
これらは、特別な才能ではありません。関心を持つかどうか、という姿勢の問題です。そして、その姿勢こそが、これからの管理職に求められる基本的な素養なのだと、僕は考えています。
次回は、この労務管理の土台として、管理職に知っておいてほしい「衛生管理者」の視点について書きたいと思います。おそらく、この言葉を初めて聞くという管理職も多いのではないでしょうか。
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